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公開日:2015.12.11

IZUTSUYA 80YEARS「大切な人」Special Movies

IZUTSUYA 80YEARS「大切な人」Special Movies

家族のこと、友人のこと、恋人のこと、かつての恩師のこと、お世話になったあの人のこと。
日本中で、誰かが誰かを思っている。

井筒屋にも、大切な人がいます。
井筒屋を信頼し、ご贔屓にしてくださるお客様。
長きにわたり支援してくださる株主様、お取引先様。
いつも温かく見守ってくださる地域の皆様。
そして、井筒屋を愛し、井筒屋人の誇りを胸に、苦しいときも、ともにがんばってきた従業員。
今年、井筒屋が80周年を迎えることができるのは、たくさんの大切な人に支えられてきたからに他なりません。

大切な人を、大切にする。
井筒屋は、そのことをあらためて心に刻みます。

井筒屋80周年 CMソング「大切な人」を作詞・作曲された、永山マキさんの紹介はこちら
→井筒屋80周年 CMソング「大切な人」


Vol.13 オーダーメイドデザイナー 貫由美子
「ファッションは、いくつになっても楽しむべきもの。」

人形に着せる洋服を作るのが大好きだった少女は、十数年後、井筒屋でお客様のための洋服を作っていた。オーダーメイドのデザイナー、貫由美子。自身はしかし、デザイナーと呼ばれることにいまだに違和感があると言う。「私の仕事は『橋渡し』だと思っています。こういう洋服を作りたい、というお客様の希望を叶えるのが仕事です」お客様の目的や好みなどを聞きながら、それに合った生地やデザインを提案していく。同じ生地でも、その柄を洋服のどの位置に置くかによって印象も違ってくる。そこがまた腕の見せ所でもある。できあがったときにお客様から「よかったー」と言われることが嬉しくて、気づいたら井筒屋に入って三十五年が経っていた。
そんな貫だが、実は一年で辞めるつもりだったと言う。専門学校で五年間学んだ貫は、家で近所の方のために洋服を作って暮らしたいと考えていた。しかし専門学校の先生の紹介もあって、仕方なく井筒屋の入社試験を受け、そして合格する。「それが入ってみたら、舶来の生地が素敵で、楽しくて楽しくて仕方なかったですね」フランス、スイス、イタリア、様々な国の美しい生地に触れ、先輩方のデザインに刺激を受ける日々の中で、辞めようと思っていた気持ちはあっという間にどこかへ吹き飛んでいた。
「ファッションはいくつになっても楽しむべきものだと思います」自分をより美しく表現したい、そんなお客様の気持ちに応えるために、いろんなお店で既製品を見て回ったり、他店の販売員の対応を参考にしたり、ときには紳士服をチェックしたり、日々の研究に余念がない。「何でも参考になるかなと思いますね。一生勉強だと思います」洋服について目をキラキラと輝かせながら話す貫。その情熱はきっと、人形の洋服を作っていたあの頃と、少しも変わっていない。

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Vol.12 コレット井筒屋 施設管理グループ 山上誠二
「人に頼られる、幸せ。」

「困ったときは山上さん」
コレット井筒屋の従業員の間では、それは合言葉のようになっている。
施設管理グループ、山上誠二。お客様の安心で快適なお買い物を、裏から支える仕事人だ。彼のもとには、実に様々な相談事が昼夜を問わず舞い込んでくる。
「なんでも来ますよ。電球が切れたとか、床がめくれたとか、壁に穴空けちゃったとか、中にはプリンターが使えないとか、電話の音が聞こえないとか。」
そんな話をしている矢先に、山上の携帯が鳴った。
何の電話だったのか聞いてみると、エクセルの使い方を教えて欲しい、だったそうだ。本当に何でも「困ったときは山上さん」なのだ。
「やりがいですか?自分がしたことに対して『ありがとう』って言っていただくことですね。」
そんな山上だが、決してすべてを聞くわけではない。いやむしろ自分の意見をズバズバ言う。本人曰く「黙っておけない」タイプだ。
例えば店舗改装のときなどは、施設管理の立場から強く意見を言い、プランに反映させる。譲れないところは、絶対に譲らない。山上のそんなところが、まわりに信頼され、また頼りにされる要因になっているようだ。
目標は何か、という質問に山上はこう答えた。
「安全。安全第一、それしかないです。」
百貨店は、華やかな場所である。きらびやかな最新の商品がならび、さまざまな催し物が開かれ、たくさんの笑顔が、思い出が生まれる場所である。しかし、それらはすべて「安全」のもとに成り立っているのだ。山上をはじめとする裏方のスタッフの、日々の地道な努力の上に築かれているのだ。
今日も山上は、施設をすみずみまで点検してまわる。壁、床、天井、上から下まで、お客様にとって危険なところはないか目を配る。
そう、百貨店は、安全第一なのだ。


Vol.11 黒崎井筒屋 シニアプロ 紳士エキスパート 安本弘毅
「人と人とのつながりを、ずっと。」

「やっさん」こと安本弘毅は、黒崎井筒屋のシニアプロ紳士エキスパートであり、また、オヤジギャグのエキスパートでもある。
その愛嬌とざっくばらんな性格で、同僚からも後輩からも、そして一部のお客様からも「やっさん」「やっさん」と呼ばれ親しまれている。
お客様から差し入れを頂くことも多いそうだ。
「うれしいですよ!『これ持って行ったら、やっさんが喜ぶやろうねえ』って思われることは。」
安本は何よりも「縁」を大切に、「正直」に生きることを信条としてきた。
それは国語の教師だった父親の教えだと言う。
「やっぱり誠心誠意接すること。アフターケアまできちっとね。そうするとお客様も感じ取っていただけると思います。」
多くのお客様から「やっさんが言うならこれにしようか」「やっさんに任せるわ」と言われるほどの信頼を得ている理由はしかし、その人柄だけではない。
長年の経験と努力で身に付けた、確かな「技術」がある。
若い頃はとにかくがむしゃらに働いた。休みは月に二、三日だった。成績のいい先輩の話術や技術を盗んでは必死に勉強し、自分のものにしていった。
例えば安本は、見ただけでその人のウエストや首回りなどのサイズを、ほぼ正確に当てることができる。お客様は、いろんなサイズを着せられる販売員より、すぐに自分にぴったりのものを持ってきてくれる販売員のほうが、安心感が持てるのだと言う。
また安本の接客は、お客様から見た立ち位置と、距離が絶妙である。圧迫感や不安感を感じさせないように気を配り続けた中で、自然に身に付けた「間」である。
その接客力は井筒屋に欠かせないものとなり、定年を過ぎた今でもシニア雇用として売場に立っている。
この世界に飛び込んで四十年。八十周年を迎えた井筒屋について次のように語った。
「お客様あっての井筒屋ですから。人と人とのつながりを大事にしていくスタンスは、続けていってほしいです。我々が引退したあとも、ですね。」
井筒屋はお客様も社員同士もアットホームな百貨店、と安本は言う。そんな雰囲気づくりに「やっさん」本人の人柄が一役買っているのは間違いない。


Vol.10 山口井筒屋 外商グループ長 斎藤淳一郎
「みんなが幸せになれる商売を。」

「ちまきや」という百貨店がかつて山口にあった。
安政二年創業。地元に愛され続けた老舗百貨店が、百五十三年間の歴史に幕を閉じたのは、平成二十年のことだった。その後を引き継いだのが、山口井筒屋である。
「百貨店って、街のインフラじゃないですか。看板は変わったけど、百貨店が残って良かったです。」
そう振り返るのは、元ちまきや社員であり、現在は山口井筒屋の外商グループ長を務める斉藤淳一郎。柔和な笑顔が印象的な、生粋の山口県人だ。
「ちまきや時代にお客様に育てていただいたのは間違いないですから、そのことを山口井筒屋で上手にいかしていきたいですね。」
大学卒業後、ちまきやに入社し、婦人服、子供服担当を経て外商部に配属になった。どんどん外へ出て行く外商の仕事は、積極的で好奇心が強い斉藤の性格に合っていた。お客様とは、商売の話が一割、あとの九割は趣味の話や世間話がほとんどだった。その会話の中からいろんなことを学ぶことができたと言う。
「お客様に育てていただいた」という言葉を、斉藤は何度も繰り返した。
斉藤には、昔から大切にしている言葉がある。
「三方よし」
もとは江戸時代から明治にかけて活躍した、近江商人の商売の心得だ。
「販売する私ども、お買い上げいただくお客様、それから商品提供していただくお取引様、この三者がみんな満足する商売ができればいちばんいいですね。」
外商グループ長という、より商売を俯瞰して見る立場になった今、斉藤はあらためてこの言葉をかみしめている。
「部下の成績が上がって、お客様からも『ありがとう』という言葉をいただいたりするとですね、天にも昇るような気持ちになります!」


Vol.9 シューフィッター 中江路子
「いい靴は、その靴を履いた人を、いいところへ連れて行ってくれる。」

中江路子は今から約十九年前、紳士靴の世界に入った。いや、放り込まれた、と言うべきなのかもしれない。ある別の百貨店にアルバイトとして入ったその初日、人が足りないという理由でたった一人で紳士靴の接客をすることになってしまったのだ。あまりに何も分からずオロオロする中で、中江は思った。せめてこの売り場にいる間だけでも紳士靴のことを勉強してみよう、と。その時から紳士靴のシューフィッターとしての中江の人生が始まる。
「自分で履いて試せないぶん、知識を増やして補おうと考えました。男性は靴に詳しい人が多いですが、お客様が知っていること以上に知ってないと、ご納得いただいてお買い上げいただくことはできないと思ったんです」
シューフィッターの資格があることを知り、カリキュラムを受講した。男性誌を買い漁っては読んだ。最初は販売員としての責任感からだったが、徐々に紳士靴への純粋な興味のほうが勝っていく。つまり、ハマったのだ。最近では「バチェラー・オブ・シューフィッティング」という、さらに一つ上の難易度の高い資格も取得した。
中江はその豊富な知識で、お客様の好みと、足に合った靴を探し出す。もしお客様が気に入ったデザインでも、どうしても足に合わず、後々足をいためると判断したときはきちんとお伝えするようにも心がけている。この前すすめてくれた靴、すごい合ってよかったよ、と言われることが何よりもうれしい。
紳士靴の接客をする上で、女性ならではの利点はあるのだろうか。聞いてみると「主観が入らないこと」という答えが返ってきた。「自分はこれが好きだからとか、自分はこれは合わないからとか、主観を交えずにお客様に合った靴をフラットに選べることかもしれません」
中江の好きな言葉がある。「いい靴は、その靴を履いた人を、いいところへ連れて行ってくれる」中江はこれからも、たくさんのお客様を、その場所へ連れて行ってくれるだろう。


Vol.8 ポーター 岡本常太郎
「歩けるかぎり、貢献したい。」

赤い帽子に、赤いベスト。両手にたくさんの買い物袋を抱え、絶えず店内を動き回っている男。岡本常太郎の職業は、ポーターだ。お客様の手荷物を、売り場から所定のバス受けや手荷物預り所まで届けるのが主な仕事。決して走っているわけではないのに、その足には不思議となかなか追いつけない。「自分ではそう意識してないんですよ。あれが普通と思うとるんです。なるべくお客様に早く届けようという気持ちはありますけどね」七十三歳、その健脚ぶりには驚くばかりだが、最初の二年は足が慣れなかったと言う。「いろいろ靴を変えてみましたね。あの靴にしたり、この靴にしたり。今はなるべく通気性のいい靴を選んでいます」
岡本には、七年の経験を通して得た、自分なりの仕事の流儀がある。「お客様の目をまともに見ないようにしてるんです。このあたりを見るんですよ」そう言って彼は首の下、鎖骨のあたりを差した。「ここを見れば、お客様の足の動きも分かるんですよ。そうすればお客様にぶつかることはありません。私の場合はですね」
他にも、荷物を持った年配の方に対してどこまで手伝うべきか、どのタイミングでお声がけをすべきかなど、自分なりの接客の基準を持っている。それでも岡本は言う。「まだまだ修行が足りません」
決して楽ではないポーターという仕事。そのやりがいは、やはりお客様からの感謝の言葉。とくに子どもの笑顔はたまらないと言う。「子どもさんからね、『ありがとー』とか『バイバーイ』とか言われるでしょう。私にも孫がおりますけどね、それがいちばん嬉しいですね」
お客様に少しでも気持ち良く買い物をしてもらうために。わずかな時間でもお待たせしないために。右から左へ、上から下へ、店内全体を行き来するポーターは、井筒屋の動脈と言えるのかもしれない。


Vol.7 食品グループ長 鈴木登季夫
「百貨店は、ストーリーを売る場所。」

食品部統括担当課長、という肩書きが付いた今でも、鈴木登季夫は時間を見つけては生産者の元まで足を運ぶ。そこには、根っからの現場好きという理由以外に、鈴木のある信念があった。
百貨店は、ストーリーを売れ。
「お客様にストーリーを語れるものじゃないとだめなんです。牛肉だったら、どこで生まれて、どんな人がどんな餌でどんな環境で育てたか。こうだからうまい、という話ができないと、百貨店の商品じゃないと思うんです」だから鈴木は現場へ行き、自分が作りたい商品の企画を説明する。話して、聞いて、思いを一つにすることではじめて、ストーリーのある商品が生まれる。そしてそのことが安心安全にもつながる、と考えているのだ。
鈴木は入社以来、生鮮一筋に生きてきた。若い頃からバイヤーとして日本全国の産地、生産者の方を訪ね歩いてきた。「楽しかったですね。いろんなことを聞いて、話して。婦人部の人と一緒に干物を干したり、漁船に乗せてもらったりね。みなさんとはもう十年、二十年の付き合いがほとんどです」
だから、と鈴木は続ける。「ギフトでもこういうのが作りたいと言うと、協力してくれるんですよ」オリジナル商品は、決してバイヤー一人ではできない。生産者の方、卸の方、いろんな方の協力があってはじめてできるものだ。人は支え合って生きている、ということを鈴木は心から感じていると言う。
最後に、どんな井筒屋の八十周年にしたいか、と聞いてみると、これはまだ企画段階やけど、という前置きで教えてくれた。「実は今、『牛一頭ギフト』っちゅうのを考えとるんですよ」あまり詳しくは聞けなかったが、どうやら国産のいい飼料を食べ、ストレスを与えない広いスペースで育った健康な黒毛和牛らしい。「お客様が笑っていただけるような八十周年にしたいですね。食品なんで。元気と笑顔が一番なんで」そう言って鈴木は豪快に笑った。


Vol.6 ご案内サービス 平田晶子
「子どものころの夢は、井筒屋の受付のお姉さん。」

まだ小学校の低学年だったと思う。平田晶子は、よく母と買い物に来ていた井筒屋で、受付のお姉さんを見るたびに「きれいだなあ」と思っていた。
「きれいな格好をして、お出迎えしてくれて、笑ってくれて。あ、ああいうのやりたいなって」
それから十数年後、平田は夢だった井筒屋の受付に立っていた。今では六名の受付を取りまとめるリーダーだ。受付という仕事には、お客様のありとあらゆるお困りごとへの対応力が求められる。だから平田は、プライベートでも常にアンテナを張り巡らせておくことを意識している。「たとえば他のお店や百貨店に行ったときは、どこに何があったかをチェックしています。お客様に井筒屋にないものを聞かれたときに、『店内にはございませんが、こういったところにございます』とご案内できますので」それぞれが仕入れた情報は、連絡帳に書いて全員で共有するようにしているそうだ。
またこんな相談も意外と多い。「この前もご年配の男性のお客様がいらして、お嬢様への誕生日プレゼントに何がいいか相談されました。私でしたらこんなものやこんなものがうれしいですよ、とアドバイスしたら、ありがとうとか、助かったよとか言われたりして、うれしかったですね」どんな小さなことでも、それがたとえ井筒屋に関係ないことでも、お客様のお困りごとが解決し、感謝されること。それが平田のいちばんの喜びだ。
今日も井筒屋の「顔」として、接客の最前線に立ち、親切丁寧に、テキパキと対応していく平田。その仕事ぶり、立ち姿、笑顔は、見ていて安心感がある。ひょっとしたら、このまちのどこかに、平田を見て受付のお姉さんになりたいと思う小学生がいるのかもしれない。


Vol.5 プロフェッショナルゴルフトレーナー 冨森正二
「ゴルフは、うまくいかない。そこが魅力。」

冨森正二がプロゴルファーになる夢を諦めたのは、二十四歳の時だった。中学二年からゴルフを始めると、いきなり九州二位になるなど、たちまち頭角を現す。高校卒業後、プロテストを受けるための研修生として、山口県の山の中で七年間、ゴルフ漬けの毎日を送る。最後は、怪我に泣いた。「一生懸命やりましたから。今がやめる時だって、諦めもつきました」
それからほどなくして、生鮮部門のアルバイトとして井筒屋に入る。その最初の三日間のことを、冨森は決して忘れることはできない。「いらっしゃいませ、という声を掛けきれなかったんですよ。一言も喋れませんでした。イチゴを一パックも売ることができなかったのを覚えてます」販売の難しさを痛感した。しかし、その時の悔しさがあるから今がある、と冨森は言う。
やがてゴルフの実力と知識を買われ、ゴルフ売り場の担当となってからは、いかにお客様に合った道具を選ぶことができるか、そのための研究と努力を重ねてきた。例えば冨森は、毎朝ゴルフ練習場に向かう。次々と出る新商品を、自分の体で確かめるためだ。また年に数回は、プロのトーナメントでキャディバッグを担ぐ。最新情報が集まる場所で、これからの流行をいち早くキャッチし、お客様に伝えるためだ。さらにここ数年は、商品開発も手がけている。「長く販売をやっていると、自分しか売れないものを売ってみたい、と思うようになるんです」大学教授やメーカーと協力して開発したパターは、ある有名プロが使用したこともあって、爆発的なヒットとなった。約二十年前、一パックのイチゴすら売ることができなかった男は、今では多くのお客様から支持される販売員となった。その信頼は厚く、プロまでもが冨森のアドバイスを聞くために小倉までやって来る。
「自分が勧めた道具で、お客様がいいスコアを出す、それがいちばんうれしいね」ゴルフは、うまくいかない。そのことをいちばんよく知っているのは冨森だ。だからこそ、なぜうまくいかないのかを、お客様に伝えることができる。
最後に、冨森は言った。「うまくいかないかぎり、ずっとゴルフは続けたいと思います」


Vol.4 外商 徳満里佐
「誠心誠意、お客様に尽くす。」

「私にできるんだろうか、と思いました」
二年前、外商担当を言い渡されたときの気持ちを、徳満里佐は正直に語る。「お客様の高い要求に適切に応えられるか不安でしたし、幅広い商品知識も必要になってきますので緊張しました」加えて、車の運転にも自信がなかった。しかし徳満は、持ち前のポジティブな性格で仕事に取り組み、少しずつお客様との信頼関係を築いていった。
「はじめは玄関先でお話しするだけだったのが、部屋に上げてくださるようになって、こういうのが欲しいからぜひあなた選んでね、と言われたときはうれしかったですね」
この仕事は相手のことを思う「想像力」が発達する、と徳満は言う。
「お客様がその商品を気に入ってらっしゃるのか、迷ってらっしゃるのか、迷ってらっしゃる理由は価格なのか、デザインなのか、それとも置き場所なのか、常にお客様の気持ちを想像しながら、一つひとつ解決していくように心がけています」
たくさんのお客様と話し、商品について勉強を重ね、車の運転もちょっとずつ慣れていくにつれ、徳満は売り場にいた時とは違ったやりがいを外商に見出すようになっていった。「売り場にいると、その売り場の商品を売ることに限られるんですが、外商はお付き合いをさせていただく中で、お客様自身も気づかなかったような需要を発見して提案することができます。こちらの方からさまざまな商品をおすすめできるところにやりがいを感じますね」
外商は、売り場のない百貨店である。売り場がないぶん、提案できる商品は無限なのだ。徳満は続ける。「誠心誠意、正直に、お客様に尽くす。その一つひとつを積み重ねていって、この人に頼んだら間違いないとか、大丈夫っていう信頼を得ることができればと思います」


Vol.3 カッターマン 有川善博
「技術には、答えがない。」

井筒屋五階のバックヤード。薄暗い従業員通路を通ったいちばん奥に、彼の作業場はある。有川善博、七十四歳。職業、カッターマン。オーダーメイドスーツの型紙を作り続けて、五十年になる。年季の入った道具で、紙にしゅっ、しゅっと線を書き込んでいく。その線に迷いはない。
「お客様の体型通りに作ったらだめなんですよ」と有川は言う。全部が全部お客様のサイズ通りに仕立てると、見た目が悪くなることが多い。体型に合わせながらも、既製品の形の良さ、流行を少し取り入れることで、オーダーメイド以上のものに仕上げていく。それが、長い経験の中で磨き上げてきた有川の技術だ。だからこそ有川の元には、こだわりの強いお客様が訪れる。
有川はオーダーメイドスーツの店を営む家に生まれた。小さい頃から見よう見まねでやっていたが、本格的に勉強したいと二十一歳のときに上京。日本洋服専門学校で三年間学んだのち、二十五歳で井筒屋に入社する。それ以来ずっと井筒屋一筋、カッターマン一筋で生きてきた。「お客様は一人ひとり違いますから、それぞれに難しいところがあるんです。技術には答えがないんですよね。頂点がないし。どこまでやっても、ですから」
仕事の喜びは何か、という質問には「心配ごとが収まったとき」という答えが返ってきた。「オーダーメイドは良くて当たり前なんですよ。高いお金を払って作るんですから。だから仕上がるまでは心配ごとが多いですよ。できあがってお客様に喜んでもらったときは『やったー!』って思いますね」その喜びは、二十代の頃も、七十代になった今も変わらないと言う。またそれが、五十年も続けてこられた大きな理由の一つだ。
「天職、としか言いようがないですね。それしかないです。五十年もやってて他に何かあるって言うたら怒られますよ」有川は今日も作業場に向かう。自ら仕立てたスーツに身を包んで。やっぱり、オーダーメイドは、カッコイイ。


Vol.2 いづつや饅頭製造販売 中山しのぶ
「六十年以上、変わらない味。」

ほんのり甘い白あん。ふわっとした生地。真ん中に井筒屋の井桁マークが焼印された「いづつや饅頭」は、六十年以上愛され続けている井筒屋の名物だ。焼きたてを目にも止まらぬ早さで包装紙に包んでいるのは、九年前からいづつや饅頭を製造販売している中山しのぶ。「まさかここで働くとは思ってませんでした」自身も北九州で生まれ育ち、物心つく前からいづつや饅頭に親しんできた。
味は、その頃から少しも変わっていない。「私が何かを変えるということはありません。味も、作り方も変えません。それに、この生地には、白あんがいちばんおいしいと思います」一個から買える気軽さ。一口二口で食べられる手頃な大きさ。機械が饅頭を焼く様子をガラスにへばりついて見入る子どもの姿まで、昔のままだ。
変えないということはしかし、そう簡単なことではない。中山は今でもときどき、饅頭を焼く機械が壊れる夢を見るという。「機械だから自動のように見えるんですけど、生地やあんこの分量の微調整は必要です。同じ焼き色にするために、その日によって温度も調整しています。古い機械なので油をさしたり、変な音がしていないか確認したりしています」
一日に焼く数は、約四千個。今日もたくさんのお客様が、いづつや饅頭を求めてやってくる。近所の方へのお土産に。遊びにくる孫のために。病院のお見舞いに。あの味を求めてやってくるお客様に、いつでもあの味を提供し続けること。昔ながらの味を守り続けることは、お客様一人ひとりの思い出を守り続けることでもあるのだ。
「私としては、焼きたてよりも、ちょっと時間をおいたほうがおいしいと思います。コーヒーにも合いますが、私はお茶派ですね」そう言って微笑む中山は、いづつや饅頭のいちばんのファンなのかもしれない。


Vol.1 和洋酒バイヤー 吉田正吾
「人と人とを結ぶお酒をつくる。」

お酒のバイヤーである吉田正吾には、一年以上前から温めていた企画がある。それは、人と人とを結ぶお酒をつくること。北九州のお米で、北九州の蔵元で、北九州の皆様に愛されるお酒を作る。それが井筒屋を育ててくれた北九州への、恩返しになると思ったからだ。
「たんにラベルを張り替えただけの記念酒にはしたくないんです。」と吉田は言う。「お酒づくりの一から十まで、すべての工程に立ち合いたいですね。やっぱり自分が体験してこそ、お客様に思いを伝えられると思うんです。そうじゃないと、人と人とを結ぶお酒にはなりませんから」
お米作りは、八幡西区の倉成さんに協力を仰いだ。春の田植えから秋の稲刈りまで、ていねいな指導を受けた。台風が連続してやってきたときは気が気でなかったと言うが、幸いにも影響はなく、実がずっしりと重い最高のお米が収穫できた。それを仕込むのは「天心」で有名な八幡東区の溝上酒造さん。ここの特別純米酒のおいしさに感動した吉田が、杜氏にお願いしたところ快く引き受けてくれた。目指すべき味わいについて、杜氏と何度も語り合った。ラベルのデザインは、門司区の障がい者施設のあすなろ学園さんに依頼。このお酒にふさわしいデザインを模索中だ。
今、北九州のいろんな思いが、つながり、一つになろうとしている。「自分がつくっているとはまったく思ってないです。みなさんの協力で一本のお酒をつくっているとしか思ってないので」
お酒の名前は「縁紫(えにし)」に決まった。紫川が流れる北九州の人々の縁をつなぎたい、という思いを込めた。「ほんっと楽しみですよ。どんな香りがするのか、どんなうまみをもっているのか。ああもう、早くみんなで飲みたいですね」吉田の思い、北九州の皆様の思いが結晶した一本。井筒屋八十周年記念酒「縁紫」は、二〇一五年春、完成予定だ。


井筒屋創業80周年記念CM 30秒

井筒屋創業80周年「大切な人」フルバージョン PV